知識の奴隷:動きの最小単位2
前々回のブログでは動きの最小単位をどんどん深堀しだしていくと、キリがないほどになっていくという話でした。
前回も書いた通り、動きといえば、関節、骨格筋系ばかりがクローズアップされます。
もちろんそれだけでも結構広い世界ではありますが、それらに影響を与えているものと考えると実はもっともっと非常に幅広いところが影響を与えているわけです。
まさに小宇宙。
そんな世界が私たちの身体の中に広がっているわけです。
そして細かく考えていくこと、それが無駄だといってるわけではなく、とても必要なことで、私自身突っ込んで考えていくことによってどんどん成長できたと思っています。
しかし、知識を蓄えることに必死になって、そこまでいくと何か途中で忘れ物をしたような気になります。
結局何がしたいんだったっけ?となるわけです。
いろんな人が、「科学的に基づいて」という言葉を口にしますが、こんな広くて深い世界を科学的に理解して現場で活用しようとしても、どれだけの論文を集めたら、どれだけ時間をかけたら、人間そのもの、人間の活動自体を、科学的に理解できるんでしょうか?
意外に科学、科学って言ってる人も、やっていることが型にはまってしまっているんじゃないでしょうか。
所詮人間が覚えておけることなんてたかが知れています。
体力も同じ。いくら走るのが速くなっても、犬にも熊にも勝てません。そして、体力それ自体では、自然の猛威にはひとたまりもありません。
話が飛びましたが、いちいち、クライアントが目の前にいながら、イレギュラーな対応に対して「あれは、どうだったっけ?」なんて、論文を探して読むなんてことはできません。
あるいは膨大なデータベースからAIで一瞬で探し出せる時代が来たとしても、相当大まかなことしかわからないと思います。
いろいろな学問がありますが、それぞれがそれぞれの視点で、実態のほんのかけらを切り取ってある小さな手がかりをもとに積み重ねたものであって、過去の偉大な発見も発明ももちろんこういった科学の気の遠くなるような努力の結晶ですが、自然の本の砂の一粒みたいなもんです。
もちろん人間のやってきたことを否定しているんじゃありません。こういう考え方もできるということです。
それで世の中が発展発達してきたのは事実であり、決して世の中悪くなったとは思いません。相当便利になったと思います。いまやパッとわかることは昔の何倍も早くわかるようになりました。
でも、ここで言いたいのは、そのために失われたもので大切なものがたくさんあるんじゃないかなってことです。
だからこそ生身の人間は、まず自分自身が何者かを知り、それをとりもどさなければ、知識の奴隷になってしまいます。
今の世の中はとくにそう言う傾向が強くなっているような気がしてなりません。一億総頭でっかち。そしてその知識を悪用され奴隷にされかかっています。というか自らすすんで、自分自身で奴隷になっているようにも見えます。
その失われたものの代表的なものが、冷静な感性であったり、勘といわれるものであったり、魂や意識であったりといった目に見えないもの、数字で測れないものなんでしょうね。
実際、理論の積み重ねであるはずの科学でも感性や直感と無縁かといえば、全くそうではないと思います。
古今東西見渡してみれば、優れた科学者ほど、感性、直観に優れ、また深い宗教観、神への畏れなどを持ち合わせている方が多いと思っています。
本当の科学ってそういったこともすべて平等に扱って初めて本来の良さが発揮できるもんなんではないでしょうか。
さて、これまで話したように細分化して考えることも非常に大事ですが、一方でそういったものを統合、総括するような無意識的な直感も細分化が進めば進むほど重要になってくるということですね。
これまでいろいろ言ってきた、動きの最小単位と考えられるものって、つまりはこういう目に見えないものによって調整、統合されているんだ!ということがようやくわかってきたわけです。
それがわかると、その詳細で細分化される途中で切り刻まれ、なくした生命が再びそこに宿ります。
でも、知識や理論に頼ればたよるほど、この部分は衰退していきます。
これ以降の話は、また追々書いていきたいと思います。