心で走れ?
心が身体を動かす というと、私なんかはどうしても精神論に聞こえていました。
かつて中村天風という方がいました。「心が身体を動かす」ということで非常に多くの合気道の藤平光一氏も師事していたくらいで、著名人、スポーツ界に影響を与えた方です。それだけ凄い人だったと思うのですが、
そういえば瀬古選手の育ての親の中村清監督も心で走れみたいな本を確か出版してましたね。2人が関係あるはわかりませんが、多分無関係です。
それがおそらくいろいろと影響してか、もしかすると中身もよくわからず受け売りのようにする人も多かったのではないかと思います。そういう風潮が強い時期があったように思います。
本来精神論以上のものだと思いますが、今でもほとんどの人はそれを単なる精神論として言っているとは思います。
精神論ってのも、やっぱり大事なものだと今では思うのですが、一時期毛嫌いしている時期がありました。
さかのぼれば高校時代、ある駅伝の入賞常連校に名を連ねる複数の強豪の高校と一緒に合同合宿に参加したことがあります。
合同合宿ってのはもちろん緊張感もあって練習も普段よりはずっと大変なのは当たり前なのですが、中でも、その合宿はひどかった。
まあ、なんというか荒行を重ねる修行僧のような五泊六日の合宿でした。
一日の走行距離は50km~60km。
少ない日でも、30kmくらいは踏んでいたんじゃないでしょうか。
もちろん距離が少ないということは、スピードが上がるということですから、走る距離が少なけりゃ楽だってもんでもありません。
これは実業団顔負けです。
一例を挙げると、朝飯前に約10kmの朝練、精進料理のような朝飯を食べて、トイレ掃除、しばらくの休憩の後、
午前練習のプログラムは、 400mのグランド50周、つまり20kmのビルドアップ走です。
でもそれはあくまでも本錬のプログラムであって、その前に、そのグラウンドまで約2kmの道のりをジョグで行きます。さらに本錬前のW-upでグラウンドを5周(2km)、流し、そして体操。もちろんこれは本錬後のC-downとともに必ずついてきます。
これで朝から、午前中だけでもう少なくとも48kmを走破したことになります。
さて、午後。 午後はといえば、今度はロードで20km走ペース走でした。
そのスタート地点までこれまた2kmほどあるというので、もう笑うしかない。それも引きつり笑い。
それでも20kmスタートして数キロまでは何とかついていけても、その後遅れだし、ついに走れなくなってしまいました。
大体そんな練習、自分の高校ではやったことはありませんから、当然です。
時期は3月。山の中ですから、夕刻が迫ってくるとすごく寒くなる。疲労に加え、エネルギー切れを起こしてますから、寒くて震えながら、それでもなんとかゴールにたどり着く有様。
また、最後のたった2kmの帰り道が長い長い。
その日の夕飯なんか食えたもんじゃない笑)。でも残すことは許されませんから、うまくごまかしながら食べる。
私とは違って、食欲旺盛な奴はお替りに立つとその強豪校の生徒から、「ちゃんと走れてないやつがお替りなんかするな!」と罵声をかけられる。
そんなこと言うか?
極めつけは、夕飯食ったら、一刻も早く休みたいのに、
なんと、今日の練習の反省会?というかこれは毎日です。
「は?アホかおまえらは!!?」と言いたいけど言えません笑)。
その内容も、生徒から出てくる反省は「声が出せなかったからもっと声を出す」とか、「腕が振れなかったから腕をもっと振りたい」とか、
そんな反省意味あるの?
反省なら、そのトレーニングのプログラムが妥当かどうかも生徒から出てくるのが本来の姿じゃないでしょうか?そういうことに疑問はだれも呈しません。
まあ私も含めて全員、いや、ほとんどの生徒がやらされてるんですから、当たり前です。
そしてその強豪校の先生からの最後の訓話。
「心で走れ」「感謝のこころ」など、もちろんそれは大事なことはわかりますが、やはりはっきり言って高校生の私には意味不明です(笑。
何時も聞いている自分の高校の恩師の話のほうが百倍いや、1000倍素晴らしいと思います。
心で走れば強くなる、感謝の心を持ては速くなる。
そんなことばかり。理論が破綻しています。つまり精神論を超えて宗教ですね。
ホントに偉いのかもしれませんが、どっかのえらいお坊さんの真似でもしてるつもりか!
はっきり言って頭に来ました。これが強い学校の実態かい!
夕飯おかわりして、罵声をあびせるのが心で走るということかい!
なにが心で走れじゃ!
お前は中村清のつもりか!
例えば礼儀正しくなれば、強くなれるということと同じです。礼儀正しくして強くなるんなら厳しいトレーニングなんて不要です。
その上、そいつらが礼儀正しい、心で走っているとは決して思いませんしね。
お辞儀の練習、挨拶の練習だけしていればいいんです。極端か。笑
挨拶の徹底なんかは、高校野球をはじめとしていろいろなスポーツの監督なんかも奨励してやっていますが、これはスポーツのためだけじゃないっていうのなら、もちろんわかります。それはそれでいいことだと思っています。
心云々というより、あんなトレーニングに耐えられる身体と精神力を持ったやつが強くなるんでしょ?と私は解釈しました。とにかく速くなりたいと強く願い、平和な世の中で、今のようにコロナのような疫病もなく、競技をできることに感謝し、トレーニングに取り組む、それが感謝、心で走るという言葉に現れたのは今ではもちろんよく理解できます。
しかし禅寺にきて、禅問答をしてるわけではありませんからね。
違う見方をすれば、長距離走というのは、手っ取り早く速くなるには、精神がどうあれ、しっかりとトレーニング量をこなすことです。
そりゃちゃんとこなすことさえできれば、ああいう練習をすれば必ず早くなりますよ。そして理不尽に近い練習をしたら確かに精神力もつくと思います。
しかし精神力といっても、何も考えずただ耐えるだけの精神力が大半で、その中でいくらか大事なことに気づくものがいくらかはいるかもしれませんが。
しかし何かがやはりおかしい。当時、自分の性格も相まってですが、あの怒りはなんだったのでしょうか?
問題は、こなせずに脱落する人間が多いということかもしれません。いくら心で走りたいと心で願っても、感謝の心を持っていいてもケガしてしまえば早くなりません。
本当に走りたい強くなりたいと願っている人間が、無茶苦茶な思慮のないトレーニングによってつぶされていくのは当時の私からすると、それはとてもとても許せませんでした。
それとも、強くなりたい速くなりたいと願っているなら、どんなトレーニングでもこなせるはずだともいうのでしょうか?
どうやってしたらうまく走れる技術が身につのかわからないくせに、無茶苦茶な」トレーニングを課しといて精神論に逃げ道を作って(いるように見える)偉そうにしているあの態度がゆるせなかったのか?
とにかく、なるべく多くを強くするというより、無茶苦茶なことをしてどんどん振り落としていくやり方に頭にきていたのかもしれません。
練習中に倒れるやつもいっぱいいました。自分でやりたくて追い込んで倒れるのはまあしょうがないですが、やらされて倒れるなんて私は御免です。
もうちょっと違うやり方があるんじゃないの?と今でも思っています。
しかし、これで頭にきた私は余りにも非合理的なものに対して拒否反応を起こすようになりました。メンタルとか精神力とかいう不確定要素は排除して、そこで活路を求めたのは科学的なトレーニングでした。
三重大、筑波と恩師を頼って渡り歩き自由に競技も勉強させてもらいました(本当に私は贅沢者、幸せ者です)。
いろんな答えがそこにあって非常に勉強にはなりましたが、結局のところ方法論でしかなく、やはり何かが抜け落ちているんですね。そして科学的にいろいろ追究していてもやはり例の不確定要素からは決して逃げることはできない。
それは何か?
そこはそれやはり題名のごとく「心」が絡んでくるわけですね。かつてあまりにも逃げ場を作りやすいので、自分から遠ざけていた訳の分からない存在です。
かといって、やはり最初の強豪校の監督の言ってるような高尚かつ、あいまい、かつ、逃げ道的精神論ではく、もっともっと身近で、具体的なものです。
いろんな身近な人が、いろんな形であちこちで語っていることで特別なことは何もないんですね。不確定要素ではあるけれども、再現性はかなり高い。
情熱、やる気、楽しみ、モチベーション、感謝、特に競技においてはそれに伴う真剣なトレーニング。これは当然のこととして、
もう一つあるとすれば詳細な意識です。
詳細な意識は自分の身体を知ることにつながり、そのうえで創意、工夫を生みます。
詳細な意識をもつと疲れにくくなります。
詳細な意識をもつとなぜか、当たり前だったいろいろなことが奇跡ののように感じ感謝の心が自然に少しづつわいてきます。
詳細な意識は一方で、人格・人徳にあまり左右されません。でもやっぱり人格、人徳はあったほうがいいのは言うまでもありません。私も常に反省。
詳細な意識というものを知ったおかげで忌み嫌っていた「心で走る」ということを、その強豪校の先生が理解していたかどうかは別にして、ようやく理解できた気がします。
そういう意味で過去の腹立つ記憶も今につながっていると思うと少しづつ感謝に変わってきています笑。