アナログレコードの情報量と動きの情報量②完結
さて前回の続きです。
レコードのような情報量のように、動きに意識を注入するか否かで大きな差が出るだろうという話でした。もう少し詳しく説明したいとおもいます。
何も考えずに動かすというのは、基本、日常生活の動きはみなそうですよね。
何も考えなくてもなんということもなく、実行して、その動作の目的を達成しています。
もちろんそれでも十分すばらしいことなのですが・・・
将来も長きにわたって、怪我をしにくい身体づくりとか、今後老化を防ぎながら快適な生活を送りたい、スポーツでもっとうまくなりたい、自分が納得できるプレーなり、走りなりをしたいという時には、やはりそれだけではやや心もとないというか、不十分かもしれません。
前回の投稿でもレコードの音の情報量の話をしました。
例えば、人間の聴力は数値でいえば、20ヘルツ~20,000ヘルツと言われていま
す。まあ、この範囲に入ってれば誰でも聞こえるという音の領域です。
先ほどの動きでいえば、日常の生活だったり、スポーツを楽しむというところでの目的を達成することがこれにあたると言えるでしょう。
CDのようなデジタルの音響はその範囲だけを限定して、その代り、その範囲だけ、音源を徹底的に完璧に再現するということを目指しているということです。
(当時いろいろ読み漁ったオーディオに関する本の知識です)。
言い換えれば、20以上2万ヘルツ以外の音は切り捨てている(ただし、最近ではハイレゾというものがあり、それはもっと音域が広いようです)のです。
しかし、通常の音楽にはそれその範囲外のノイズのような音やうなりやただの余韻のような音も音の構成の中に入っています。
前述のようにレコードはそのカッティングの技術上、そういった音まで刻まれている(と言われています。)。
私の実感レベルで話をさせてもらうなら、一度、1950年代録音のジャズのある名盤をレコードとCDで聴き比べたことがあります。
CD単体で聴けばいつもの名盤なんですが、聞き比べるとやはり音の厚みというか立体感のようなものが全く違っていたのを思い出します。
レコードは音が前に飛び出すような立体感と低音から中音域にかけての厚みがあるのに対し、CDはスピーカの後ろでキンキン甲高く鳴ってる感じでした(伝わるかどうかわかりませんが)。
話をもどします。
可聴領域と同じように、ただ、ある動作の目的を達成できる・・・。あるスポーツをこなせる・・・ようになればよい・・・だけではもったいない。
その過程を一歩振り返って考えてみる、そこに少し色々な情報をまず感じてみる。
ただ手を動かす時、物を取ろうとするとき、歩きで一歩踏み出すとき・・・、手の重みはどうか? どれくらいの力が入っているか、入れるべきか、他の部分はどうなっているのか?ほんの少し角度を変えてみたらどうなる?
などなど、身体を上手に使うヒントがそこにあります。
姿勢を変えることにしても、例えば姿勢を矯正するベルトがあります。
道具を使ってむりやりアライメントを修正して、形を整えて、一時的に改善はもちろんあるかもわかりません。これも一つの身体への情報です。
しかし、最終的には、その人の意識が伴わなければ(その情報を大切に扱わなければ)、結局元の木阿弥。
仏作って魂入れず。と言うことになります。
意識の導入と言う点では非常にいいですが、それに頼ってしまってしまう状況もおこってきます。
ピラティスでも特別な器材(エクイップメント)を使いますが、あくまでも意識を植え込んだり気づきを高めたりするためのものです。
イクイップメントを使用する際にもそこが一番重要です。「使うから良い」のではありません。
また、身体への負荷を高めるというのはピラティスの場合2次的なものであると考えています。
そういう意味で、「ピラティスはマットに始まり、マットに終わる」というのは理にかなっていると思います。
マットピラティスを始めたころのロールアップ(身体を丸めて起きあがる運動)とエクイップメントを使ったりして、訓練して、気付きを高めたあとのロールアップでは動くときに込める意識、無意識での動きの情報量が違うと言えます。
色々な助けはあっても、最終的には自分の身体は自分しか変えられません。意識の持ち方が結果を左右します。
CDやデジタルもやはりすばらしい、レコードってのも、やっぱりいいもんです。
音に関して言えば、生演奏にはかなわないのは言うまでもありません。
でも音楽を楽しむうえでは、やっぱりそれぞれに利点、弱点があるのです。
そこをしっかり知って、音楽を楽しみ、身体づくりを考えるともっと面白いと思います。