実験と運動指導現場
最近、いろいろと研究生だったり、大学院時代を思い出すことが多いので…
今思い出すと、いろいろな運動に関する実験を目にしてきました。被験者になったり、自分で計画したり、同僚の実験を手伝ったり。
運動をすることで、人間の身体に何が起こるのか??
それがどう運動のパフォーマンスとかかわりがあるのか???
そういうことを血液などの化学物質から考えるような学問です。
良く考えたら途方もないテーマです笑)。
フィールドワーク的な調査もあれば、ガッツリと実験室にこもって行うものもありました。
どのような形にしても、直接実験に関わると、論文を読むだけでは絶対にわからない、いろいろなことが見えてきます。
実験に入る前から、実験の目的に沿ってデザインし、最後のデータの処理にいたるまで、実験そのものではないことも論文が一本できるまでのいろいろな過程を知りました。
そして、実際に実験に入ると、失敗も含めて、もともとの実験の目的ではなかったような思いがけない結果を見て驚くこともしばしば。
たとえば、これは私の経験ですが、
結構いろいろな人に話しているので、知っている人もいるかもしれませんが、
ある自転車のようなエルゴメータを疲労困憊まで漕いでもらって、血液を採ってデータをとる実験を手伝ったことがあります。
こんな感じのマシン。
この時、たしか、呼気ガスの分析のほか、乳酸や、血中のイオン濃度、ペーハー(PH)なんかを調べていたはずです。
軽い負荷でから、一定の時間(3分くらいかな)ごとに負荷を重くして、それを一定のペースでこぎ続けていきます。被験者はだんだんきつくなって、最後、これ以上ペースを維持できなくなったら終了。その後はそのまま安静にして運動後にも血液データを何分かとっていきます。
何人かの被験者(ほとんど学生ですが)を順調にこなしました。
ある被験者(仮にY君としときましょう)の時に事件は起きました。
運動を始めて、疲労困憊に至るまではよかったのですが、終了して2分、3分と経過するにしたがって、Y君が気分が悪いと言い出しました。
きつい運動には良くある、いわゆる酸欠の状態です。専門的にはアシドーシス(酸性化)の状態。血中乳酸は高い状態で、ペーハーも下がっています。
急いで、その場でビニール袋をわたして急場をしのぎました。ちょっと気の毒でした。
さて、出すものを出してスッキリしたその直後の採血。
なんとペーハー(PH)が一気に上がりました。つまり酸性だった状態から、一気にアルカリの方に戻ってきたのです。
乳酸や他のデータはどうだったのかはちょっと覚えていません。
でも、そのPHの戻り方は、強烈な印象を残しました。
あとでデータについて、なんでこんなに一気にPHが戻るのか?について話し合ったとき、やっぱり胃液の酸でしょう!ということでまとまりました。
確かに胃液は強い酸です。それを身体の外へ出すことによって、体内のアシドーシスを解消したと考えるとつじつまが合うように思います。
これは凄い!と感動しました。人間の身体ってすごい!
何で激しいトレーニングすると吐き気がするのか、本当に納得できました(でもほんとのところはどうかわかりませんよ)。
この実験は論文のための実験だったのか、予備実験だったのか、なんなのか忘れました。いずれにしても、書かれるとしても、この出来事はまず論文にはなりません。これはいわゆるデータの外れ値みたいなもんですし、実験の失敗ともいえます。
でも、この失敗から、激しいトレーニングで気分が悪くなるという、ある意味当たり前の現象をより深く理解することになった、私にとっては重要な出来事になりました(Y君にはちょっと気の毒でしたが)。
そしてこれは実験に参加した人でしか知りえない情報です。
世紀の大発見が、実は、もともと意図された発見ではなく、偶然や失敗の産物だったなんてのはよくある話。
筋肉のアクチンの発見なんかも、そんな感じの発見だったそうですからね。
論文を一本読むのと、論文を一本書くのとでは、月とスッポン。
論文を書くのってホントに大変。
これは本当に尊敬に値します。
私のブログのように適当に書くわけにはいきませんから。笑)
しかし、たとえ実験をたくさんして、論文を書いたとしても、そこから出てきたエビデンスというのは、それはある一つのルールにしたって、ある方向性、ある視点からの情報にすぎません(もちろんすごく敬意は払います)。
僕らは研究者ではありません。
一部分のデータではなく、対象としているのは、運動をしているのは、人間そのものだからです。
データや論文の情報は人間という存在のすべてから、流れていく時間の一瞬を切り取っただけですからね。
事実であって真実ではないともいえます。
でも、毎日の現場も、毎回データはちゃんと取れませんが、条件がバラバラな実験みたいなものです。
もちろん人体実験のようなもんじゃありませんよ。
我々の仕事って、ただ作業のように、こなすだけということもできます。
単に誰かの知識を使って、何かの数式のように、これをやれば、こうなるはず!!っていうのは最初は面白いって思いますし、便利だけれども退屈ですね。
知識は知識として、横に置いといて真っ新な気持ちで毎回仕事をすると、新しい発見がいつもあります。
ある運動や刺激にたいしてクライアントはどう反応するか。
その場にいる人にしかわからない結果を見ています。
論文や本よりずっとたくさんの情報を集めることができます。
魚のことを研究している学者より、いつも生の魚、生きてる魚を見ている現場の漁師やダイバーの方が良くわかっている部分も多いはずです。
こういう仕事の態度をいつも心がけていたいなと思います。
私がエビデンスってことばが嫌いなのは(あくまでも現場においてですよ)、エビデンスそのものではなく、その言葉に含まれている、
「控え控えぃ~!!ここにおわすお方をどなたとこころえるぅ~エビデンスなるぞ~」
・・的な水戸黄門の印籠のような、権威主義的な心理的なバイアスです 笑)。
一つの見地からの論拠で、すべて割り切ろうとする。そうじゃないものを完全に切り捨てる。そして議論もそれ以上起こらなくなってしまうことが多い。
あるいは、ビジネス臭のぷんぷん??する「科学的」根拠。でもこれは理解できる笑。
嘘じゃなければね。
自分も同じ立場なら利用させてもらいます(笑。
エビデンスと言ったって、ウソとは言わんが、そんなもん、わからんやろ~!!
さっきのpHの話じゃないけど、自分が見たわけじゃないからね。
そういうバイアスがあると信じている自分にもバイアスがあるとは思いますけどね。
まだまだ修行が足りないのでしょう。もっと修行します。
ああ、また話がそれてしまいました。悪い癖です。
物事をそのまま見るって本当にむずかしいですね。