論文と俳句、そして意識
文章ってなかなか難しいです。
特に西洋的な意味では、言語というのはどんな時も、ある一面、ある焦点に絞った部分しか表現できないという側面があります。
言葉を定義する、あるいは現象を定義することは、最たる問題です。
そして、そうしたほうがわかりやすい、伝わりやすいですからね。
その言葉を知らない、あるいはその現象を見たこともない人に伝えるときには、共通の尺度を使って、
ある条件に設定して、限定しないと議論もなにもできないからです。
文字と言葉に現さないものは意味として成立しない。
特に専門用語は言葉の意味が相当狭い範囲に限定されています。
情感もなければ、わびさびもありません(笑。
そういう、どうとでもとれるようなことは徹底的に排除しているわけですから、当然です。
学術論文とか、法律の文章はそういう文章です。そういう文章を読むときは、ある程度イメージに変換して読まなければ、さっぱりわかりません。
もともと、分かりやすくするために意味を限定していったのに、複雑な現象を説明しようとした結果、逆にわけがわからなくなるという問題が起きてきます。
論文調のいかめしい文章書いてあっても、実際のイメージで説明すれば、なんじゃそりゃっていうほど、どうでもいいことだったり、簡単なことだったり、非常に滑稽だったりします。
「だからなんやねん!」「それで?」と言いたくなることも多々あります。
意識がこもっていない言葉の羅列。
つまりそれが言葉の限界でもあります。結局、実態を現せていないことが多々あるということです。
でも日本人はすごい!その言葉の壁を完全に打ち破っています。
というかその言葉の限界というのをわかっていて、違った使い方をしています。
それは俳句の中に見られます。
俳句は日本の文化です。
何がすごいかというと、短い文章のなかに、実際に表れている言葉の意味以上に、すごくたくさんの情報を入れ込みます。
「古池やカワズ飛び込む水の音」
言わずと知れた、我が郷土の偉人、松尾芭蕉の句です。
別に俳句に詳しいわけではありませんが、この句は「水の音」という音について現しながら一方でそんな小さな音が浮き立つほどの「静けさ」を表現しているのだということです(受け売りです、笑)。
そして無駄な言葉を省いて、五、七、五形式のなかに凝縮することによって、むしろ無限の広がりがあります。また伝えたいことをより強烈に伝えることができるということです。
日本人なら、これを読んだら、大体同じような風景を想像できるでしょう。街中の騒騒しいところにある古池とカエルを想像する人はほとんどいないでしょう。
これが特に西洋人(いっしょくたにするのはあまりよくありませんが)にとって驚くべきことであって、そういう発想がないということでしょう。
言葉がそのまま意味であって、それ以上でもそれ以下でもない。それ以外の広がりを認めない、そういう文化です。
私たちがいつも言っている意識の問題ってこういうことに近いんじゃないかなと思っています。