表に現れる身体の動きは氷山の一角

これまで意識と無意識の話はたくさんしてきました。

とくに強調したいのは、

我々の、意識と無意識は、単に睡眠や昏睡、ぼーっとしているような意識がない(薄い)状態と、目が覚めて起きている状態ということではなくて、「意識のある状態」であっても、完全に100パーセント意識的ではなく、実は、意識と無意識の混在している状態だということです。

いろいろ観察してみると、無意識的なものが圧倒的に多いということが分かります。

手を挙げるという極々単純な動作をするとします。手を挙げる角度、手のひらの状態、力の入れ方、手を挙げる高さ、こちらが事細かに指定しなければ、そういったことを無意識的に選択して、結果としてその人の手の挙げ方で手を挙げます。

そしてそのやり方は、ものすごく再現性が高い。こちらが挙げ方について何も言わなければ、何回やってもほとんど同じで変わりません。こちらが手を挙げた状態のイメージを細かく指定しても、その指定した中にどうしてもできないことがあったり、またその解釈が違ったりして、なかなかこちらのイメージする手の挙げ方にならないことも多々あります。もちろん一人間の生体として不可能な動作ではないはずのものです。

それで一時的に違う挙げ方をしても、翌日にはまた自分の挙げ方をおそらくするでしょう。

つまり、意識的であるはずの動作の中にたくさんの無意識的な動作があり、しかもその縛りが結構強いということです。

いわゆる「あがり」のような状態もそうです。意識上では緊張してはいけない、リラックスしようとしながら、いざ緊張してしまえば、止めようがないほど強烈です。緊張もリラックスも長短があり、至適レベルがあって、心理学の世界では逆U字曲線というものもあり、

知識としては、なるほど!ということですが、実際にこういう仮説を利用して、至適緊張レベルを実践するためには、無意識の部分を掘り下げないとなかなかできることではありません。

少し違う角度から考えると、そのためにスポーツでもなんでも徹底的に練習して、完全に自分のものにした!と思えるまでリハーサルをするのだろうと思います。こういうものは肉体的には神経の協調や筋肉などの適応を目指すものと解釈できますが、練習やリハーサルはやはり自分の無意識に気づく機会も多くなり、そういったものを修正したりして、単に肉体的な適応以上にそういった面が多いのではないかと思います。そうすることで至適緊張レベルにもっていきやすくするとも考えられます。

ただ、この場合の欠点は、必ずしも、練習をたくさんする=無意識にアクセスできる とはならないことです。練習のやりすぎ、過度の疲労やフレッシュさを失うことと背中合わせです。

まあ、表面に現れている意識は氷山の一角で、水面下に隠れている無意識の部分が圧倒的に多いとはよくいわれることです。動きも同じで、非常に単純な動きの裏に、膨大な無意識的情報が隠れています。その膨大な情報をどうとらえて、どう生かすか。これをやれば表のことがガラッと変わります。

日本的に言うならばまさに表と裏です。であるならば、表の努力が目に見える筋力や柔軟性などのトレーニングや形としての動き方の練習、実際のリハーサルに対して、そういった表に現れるモノを支配している裏、

つまりどうやって効率よく無意識にアクセスし、それがどう表とつながっていて、それを改善するのにどうするか、なにができるかということを考えるのは、ウラの努力として非常に大切なのではないかと思います。

それにこちらのほうが可能性は無限に近い。

そういう意味で日本的な発想、表と裏、本音と建て前みたいな考え方はすごく役に立つように思いますし、日本人のこれまでの優秀さはこういうところからきているんじゃないかとも思います。

5月の東京の勉強会では無意識へのアクセス方法についても具体的に考えていきたいと思います。

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