「正しい」ピラティスって?
正しいピラティスってよく耳にします。正しいピラティスってなんでしょうか?
創始者のピラティスさんの生前に言っていた通りのことをすること?
でも、現存しているピラティスさんの動画なんかを見ている限り、オーセンティックなピラティスを実践している人でも、当時と同じようにやってる人はまずいないでしょう。
ピラティスの各団体も、その解釈は違いがあります。
ピラティスさん自身、後世に残る文献としては2冊の本を残しているだけです。私ももちろん何度も読んでいます。
指導者養成、そして公式資格コースでライセンスを取得したり、海外のインストラクターによるワークショップなど、今考えるとかなりの数に参加しました。
ピラティスがなぜ、ここまでの認知を得られたかいろいろと考えました。その理由は第一にそこに身体の真実が含まれているからにほかなりません。
でも、それがすべてではありません。
基本的にそれは「ピラティスさんから見た身体の真実」だからです。
人間は肉体的存在というだけでなく、精神的・心理的存在でもあるのです。
勘違いしないでほしいんですが、決して精神論ではありません。
解剖学的・生理学的真実は大きいけれどもがすべてでもありません。
対象者がいれば、その方の生い立ち、正確や考え方、宗教、価値観すべてが絡んできます。
それがすべて身体に現れてきます。
それを「体質」とひとくくりにしてしまえばそれまでですが、それをひとくくりにせず、いろいろな見方でみると解決策をひらめくことが多々あります。。
また、それがその人の身体にとって利益になるのか害になるのか、そのどちらでもないのか、身体が教えてくれます。
そういう「正しい○○」という考え自体が思考停止なんですね。
いろいろ書いてきましたが、つまり、ピラティスも様々な解釈ができるということです。
いろいろな解釈をすることに否定的な専門家の方もいらっしゃいますが、
私は基本的に安全性とリスクさえ理解できているならば、決して悪いことだとは思いませんし、むしろ大いに結構なことだとおもっています。
正しい!と言ってしまった時点でその方法論の死が始まっています。
いつも行っている古武術の稽古で先生も、武術の技や流派の歴史についていつも話してくれるのですが、まさに諸行無常を感じます。
挑戦することをやめたらおしまい、他流を学ぶ、考えなくなれば形骸化する。古武術を学ぶのは歴史を知り、今を知るということ。
これはよく話されることです。
そういえばピラティスのエルダーの一人でまだ健在のメアリー・ボーエン女史はユングの心理学とピラティスを融合させていらっしゃいます。もう90にもなろうというお年です。
いろいろ交流があったんですが、その中で、「東洋人としてのあなた自身のピラティスを追究しなさい」と言われたことがあります。
それ以来、ピラティスに対する迷いはなくなり、自由になりました。
ただただ、生きているものは残り、死んでしまったものは消え去るということ。
正しい、正しくないとはちょっと違うように思います。