コロナ問題に見る過去の知識と現在の感性
今となってはずいぶん以前のことになってしまいましたが、運動の実験に関する過去の記憶と教訓を妄想のように回想しました・・・その記事はこちら。↓
https://kurepilates.main.jp/%e5%ae%9f%e9%a8%93%e3%81%a8%e8%ab%96%e6%96%87%e2%91%a0/.html
ようやく6月になり、緊急事態宣言も明けました。ただ、まだまだ世の中的には予断を許さないということで、まだまだ通常のように動き出すのはまだ先といったところでしょうか。
今回のブログはそれから書きかけて放っておいた記事を見つけたので、現在の状況と合わせて完成させてみました。
やはりテーマは、先に紹介した記事に関連して科学論文と現場との違いについて書きたいと思います。
先に言っておきたいのは、私は科学否定論者ではありません。あくまでも科学の独断先行、科学への盲信、あるいは科学の一人歩きに警鐘を発しているというだけです。
まあ、私ごときの警鐘など誰も聞かないでしょうから言いたいことを書きます(笑。
最近のコロナ問題についてもよく、「エビデンスに基づいて」ということがよく言われてました。
ノーベル賞を取ったなんとかいう学者様が、ウイルスの感染や予防についてのエビデンスを色々集めたようなサイトかなにかを作っていましたが、個人的な意見としては、あんな情報を羅列しても、混乱が大きくなるだけのような気がします。
ノーベル賞学者が引用したという権威の尾ひれがつくからです。
ランニングなんかでも息が荒いとウイルスが飛散しやすいとか、屋外のランニングさえ大っぴらにできなくなってしまった人も多いと思います。
個人的には、たとえ事実であっても余りにもバカバカしい。
WHOのわけのわからないマスク論争やソーシャルディスタンス、パンデミックにオーバーシュート、ロックダウン、クラスター、挙句の果てに東京アラート???など、何かよくわからない横文字が横行して、横文字になってりゃ先進的、科学的に聞こえるのかわかりませんが、
ウイルス対策も一見科学に基づいて見えるだけで、結局は感情的な対策にすぎないような気がします。
でも、一方で、私はそれも全否定はできないなという気持ちがあります。
やはり人間は感情の生き物だからです。一応そういうことをやっていれば人からも何も言われないし、やはり安心するからです。
かくいう私もそういったことで安心を求めようとする自分に気づきます。
不安も感情なら、安心も感情です。
人間の存在自体が科学的ではないんですね。
現時点でいくらエビデンス、エビデンスといっても、結局は断片的な事実をよせあつめて推測に頼らざるを得ません。
100年前のスペイン風邪と比較されたりもしますが、時代背景もウイルスも全く違いますからまさに参考です。
今回のコロナの現時点での対処において、最終的で、現実的な方法は、はっきり言って自粛意外の措置なし。手洗い、うがいの連呼のみ。
そして、実際のコロナに感染した方々を治療する医療の現場では、対症療法と、現場の方々の経験と勘に頼らざるを得ない。
その中での現場の医療関係の方々の使命感と勇気、そして努力には頭が本当に下がります。
まさに現場の人々にはエビデンスを参照することよりも、それぞれの方の直感、感性にゆだねられているといっても過言ではないのではないでしょうか。
それによっても救われた部分が多々あることは間違いないことと思います。
少なくとも第一波において、日本を含めた、アジア諸国でほ大きな被害が出なかったことも、BCGの接種率だ、インフルのワクチンだといわれてはいますが、今のところですが結局はわからずじまい。
研究の最前線は何かつかんでいるのかもしれませんが、それも確信するには早計でしょうね。
つまり今後どう動くかも全くわからないのと同じ。
今現在の流行とその患者に対して、エビデンスにどれだけ基づいても、ほとんど無力に等しいということですね。
エビデンスっていったいなんだ?ということになります。
冒頭の以前の記事でもふれたように過去の実験や事実から公式に、これはどうも本当らしいという知識で公になったこと・・・とでもいえるかな。
流行が収まって、ただの風邪になったとき、いくらエビデンスでしっかり明らかになったとしても、肝心の流行時に役に立たなかったら意味がありません。
参考にはなりますけどね。
エビデンスというのは今現在起こっていることに対して、過去の物事、出来事の事実から参照するための一面的な知識のようなものです。
つまり過去の事実です。
意味のないことではなく、大切なことではありますが、過去の事実にすぎないということです。
しかも、一面的な。
魚や動物でいえば、
ホルマリン漬けの標本やはく製みたいなものです。
形や骨格はなどはわかるけど、生態や習性、食性はそこからはほとんどわからない。
例えば、少しかじったことのあるスポーツ科学の論文なんかだと、
ある運動の効果が、どのようなものであるかを見るために、実験計画や、アンケートを作って、
実際にその運動をしてもらって、いろいろな測定をします。その結果データが得られます。
基本、論文を書くまでの実験では、実験の計画はもちろんあるけど、実験の対象とその結果は、ある程度そのまま見ます。
そこから重要なことや、テーマに沿ったことを切り取って、一つのストーリーになるよう、筋道を立てて一つの論文に仕上げていきます。
もちろん思った通りの結果が出ても出なくても、どのような問題意識からその実験が行われ、その結果が出たか、という事実に重きを置いて考察します。
重要な部分というのはその研究室のテーマによって異なります。つまり同じ実験でも切り口はいくつもあるということです。いや、無数です。
例えば、バイオメカニクスなら、人の動きを物理の視点で見る。
スポーツ生理・生化学は生理学的な視点から。
生理学と言っても、骨格・筋はもちろん、脳・神経からもあれば、呼吸・循環から、内分泌まであります。
解剖学的な位置関係から見ることもあれば、働き、機能から切り込むこともある。
スポーツ心理学もあります。心理と言ったって、その中で切り口はいくらでもあります。
でもそれぞれが、一面的な見方しかできない。
全部カバーするのはほぼ不可能ですね。
そのまま物事を見るってことが難しいと前回も言いましたが、
現場での我々の仕事って、論文を書くことではありません。
論文のなかにあるデータがエビデンスであって、著者の考察は厳密にはエビデンスではないと思います。同じデータをもし別の著者が見れば、違う考察になる可能性は大きいからです。
論文を読むことでもありません。
私も読みますが、仕事の肥やしとしてです。植物でも肥やしをやりすぎれば植物はうまく育ちませんよね。
でも毎日、運動指導を通じてなんらかの成果・結果を出す仕事は、人をそのまま見る仕事だと言えます。
つまり毎回が条件の違う実験なんです。
論文を読んで、覚えて成果を出そうとしても、そのまま使えるわけじゃあありません。
何かの条件が変わればすべて変わってしまうからです。
過去の事実にこだわると、今現在のその人が見えなくなってしまう弊害も出てきます。
実験は実験でも、切り口を研究よりも、対象となる人と場合、場所、時間の流れによって自由自在に変えなければいけない実験。あるいは部分的な視点と全体的な視点を同時に持たなければならない。
本で得られる知識やエビデンスと言われるものも大切なんですが、すべてを網羅するのはまず不可能です。
古武術の先生や東洋医学の先生が言われるように、知識は知識、勉強は勉強として、いったん捨てる必要があります。
勉強するのが無駄、知識が無用ということではありませんよ。
そしてそれが使えるか否かは、感性や意識にかかっているともいえます。
対象のクライアントを目の前にして、教科書や論文で調べたり、自分よりもっと知識のある人に聴くわけにはいきません。
エビデンスも、知識も経験も過去のもの。今ここで感じている感覚、感性は今まさに現在のもの。
知識が多くなり、高度になればなるほど、感性や意識もそれ相応に高めなければバランスが悪くなります。
自分も含めて、技術や知識ばかりが進歩、そしてそっちに目が奪われ、実際の自分の身体や心が置き去りになっているんだなと今更ながら猛反省。
まだまだ修行です。