物理と宗教?
天地自然の理とよく言いますが、
重力はその中の一つだと思います。
ある物体が高い場所にあるというだけで、位置エネルギーを持ちます。
だからこそ、大雨で高い山の土砂崩れが起きれば、その位置エネルギーが破壊力は凄まじいものにします。
これはあまりよくない例ですが、
水力発電は高いところから流れ落ちる水の勢いを利用して発電します。昔なら水車を回していろいろな仕事をこなしていました。昔から人はうまく重力を利用して生活に役立てています。
人間の骨や内臓を保持する力は、重力あってこそということは宇宙へ行ったパイロットの研究が進むにつれて明らかになってきました。
宇宙のような無重力環境では、相当な運動をこなしたとしても、骨密度のロスは防げないということです。
人間の努力というのはこういう時にはむなしいものですが、それでもやらないよりはいいので宇宙に行く人たちはそれなりの準備が必要ですし、宇宙にいる時も相当な運動をこなします。
昔の人はまさにこういった力やエネルギーを神の力だととらえても不思議ではありませんね。
でも現代の、個人としての人はあまりこれを意識したり、利用したりすることをあまりしなくなったような気がします。
とりもなおさず、現代の生活が便利になったからだといえます。
移動は車、バイク、電車、飛行機 etc
移動とは重心の移動です。当然、重力と密接に関係があります。
水を井戸から運ぶ、家事、農作業。その他、いまでは、ボタン一つでできるようないろいろな仕事を人力でしなければならなかった。
いい換えれば、一日中過酷な運動をしなければならなかったということですよね。
その分、昔の人はどうやって楽に動くかを考えなければ、とてもじゃなければやっていけなかった。
昔の人のほうが、身体についてより深く考えていたのだと思います。
動かなくなった、そして自分の身体を深く考えなくなった現代の人は、いろいろな病気や障害が増えたといって、運動と健康の関係をたくさん研究してきました。
でもだからといって、とりあえず身体を動かしておけばOK、筋力をつければOK、重力に逆らえればOKというのはちょっと行きすぎ。
というか短絡的すぎ。
単に歩数や筋力の数値、運動量、活動量、カロリーだけを問題にするのであれば、問題を減らすつもりが、新たな問題を増やすことにもつながりかねません。
そういうことしか研究対象にならないことも問題です。
自分の力を頼み、それに逆らって生きていると、そのツケは徐々に自分に帰ってきます。
普段はほとんど感じない重力も、病気になったり、疲労したりすると、重力ってこんなにも過酷なものかと思わず納得させられます。
呉は坂の多い街ですが、私も傾斜のかなりあるところに住んでます。こんなところに住んでいると本当に大変です。近くに住むお年寄りなんかは本当に大変そうです。
私は体力には自信のあるほうですが、毎日のこととなるとこんなに大変なものかと本当に思います。
目に見えず、いないようでいて、当たり前のように存在して、そしてぴったりくっついて離れない。いわば、背後霊か、守護霊か、いやその巨大な力は神様みたいなもんです。
ある時は自分を鍛えてくれ、助け、ある時は天罰を下します。
古武術の技でも、この重力を利用するということは相当な位置をしめてます。自分を守るためにはこの力を利用しない手はないんです。
そういう意味で、物理というのは神様を扱う学問だともいえなくない。
そして神様の意思に沿うようなこと、神様と一体化すること、つまりその神様と仲良くすれば、そのご利益も相当なもんだといえますね。